天正六年(1578)三月十三日、”越後の虎 上杉謙信”が春日山城(現在の新潟県上越市)で突然病死したことをいたみ、 上杉方で沼田城代の一人であった上野中務家成が、当時後閑にあった恕林寺で供養塔を建立して法要しました。 その後この宝篋印塔は、当地如意寺に移られたといわれています。 塔身は無く、基礎は三つに区画され「造立石塔一基」「奉為謙信法印」「天正戊寅四月日」と彫られています。 戊寅は天正六年、謙信の死の一ヶ月後にあたります。
第二次大戦末期、日本政府は国内の労働力不足を補うため、38,935人の中国人を強制連行し過酷な労働を強いた結果、6,830人の尊い命が失われました。
月夜野の岩本発電所水路掘削工事では、中国人43名の方が亡くなり、当時の住職が故郷から遠く離れて死んだ中国人を哀れみ、
「死ねば中国人も日本人もない」と戒名をつけて手厚く葬りました。
1970年、建設委員会により当寺に「中国人殉難者慰霊の碑」が建てられました。
中国人の遺骨を安置した本尊をまつった須弥壇の裏側には、記録として墨書された板が現在も残っています。